歌川広重は『東海道五十三次』で街道の宿場を行き交う旅人、自然、名物を情緒豊かに描きました。『東海道五十三次』の全55作品の宿場の所在地を一覧にしました。全作品を無料でダウンロードできます。
『東海道五十三次』に描かれる人物には重要な役割があります。絵の中の人物と自分の記憶や体験が重なる時、私達は絵の中に入り込むのです。作品に描かれている人物に焦点をあてて16作品をご案内します。
浮世絵『東海道五十三次』とは
保永堂(ほえいどう)版 『東海道五十三次』について
『東海道五十三次』とは東海道にある53の宿場を指します。
東海道は江戸と京を結ぶ街道です。江戸時代、東海道は日本橋を起点にした五街道の一つで、物流の大動脈でした。
徳川家康は東海道に53の宿場を定め、伝馬制を導入します。伝馬制は駅伝でたすきを次のランナーに渡すように、人や物資を宿場で受け渡す仕組みです。江戸から京まで宿場で53回受け渡しするので、東海道の宿場は「東海道五十三次」と呼ばれました。
歌川広重は天保年間(1833-1834)に保永堂から浮世絵『東海道五十三次』を発行しました。保永堂版『東海道五十三次』は東海道の53の宿場と出発地・日本橋と到着地・三条大橋を合わせた55作品からなる、木版の浮世絵です。広重は宿場とそこに行き交う旅人、自然、名物を情緒豊かに描きました。
歌川広重について
歌川広重(1797-1858)は江戸時代後期の浮世絵師です。1797年(寛政9年)に江戸の定火消同心の家に生まれました。15歳で歌川豊広の門下生になります。35歳の時に職を跡継ぎに譲り、絵師に専念します。
当時の浮世絵のテーマは美人画や役者絵が主流でした。広重は日本各地の名所の風景を描く名所絵を手掛け、人気の絵師になりました。『東都名所』『東海道五十三次』『木曽街道六十九次』『名所江戸百景』が広重の代表作です。
『東海道五十三次』宿場一覧
『東海道五十三次』の全55作品を宿場のあった都道府県名と共に一覧にしました。リンクをクリックすると作品を無料でダウンロードできます。
地図上に宿場の場所をピンどめした、地図アプリ「東海道五十三次の旅」を公開しています。宿場の詳しい場所はこちらを参照してください。
作品紹介
ドラッカーの言葉「日本の山水画は、観る者を招き入れます。」
マネジメントの父と呼ばれるピーター・ドラッカー(1909-2005)は日本絵画の愛好家でした。ドラッカーは1990年、根津美術館で行われた公演で以下のように述べています。
日本の山水画は、観る者を招き入れます。それどころか、むしろ入ることを望んでいて、そこにはつねに観る者の場所が用意され、身を委ねるほど、ますます深くその世界に入り込むことを可能としています。やがて、突然、そこからもう出られないことに気づきます。観る者は画の一部分に同化しているのです。
『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画/「マネジメントの父」が愛した日本の美』千葉美術館展覧会 図録より
江戸時代後期に成立した浮世絵は、大和絵や水墨画など、日本絵画の伝統を受け継いでいます。『東海道五十三次』で描かれている人物も、観る者を招き入れます。絵の中の人物と自分の記憶や経験が重なる時、私達は絵の中に入り込むのです。
作品に描かれている人物に焦点をあてて、16作品を紹介します。
ご当地名物
『東海道五十三次』では宿場の名物が多く描かれています。
■『丸子 名物茶店』 旅人が食べている名物は?
名物のとろろ汁をうまそうに食べる旅人がいます。
元禄4年(1691年)、松尾芭蕉は江戸へ旅立つ弟子へ、はなむけの句を詠みます。
梅若菜(うめわかな)丸子の宿のとろろ汁
松尾芭蕉
『東海道五十三次』発行の150年前に詠まれた句です。広重もこの句を念頭に、茶屋を描いたのではないでしょうか。
描かれている茶屋の丁字屋は現在も健在です。
丁字屋の情報はこちら(外部のサイトにリンクします)
■『水口 名物干瓢』 干瓢(かんぴょう)はどうやって作る?
地元の女性たちが干瓢を作る様子を描いています。
干瓢(かんぴょう)は、ユウガオの実を薄くむいて干した保存食です。水で戻して寿司や煮物の材料に使います。
ユウガオの実を運ぶ女性は赤子を背負っています。明治初期に日本を訪れたアメリカ人の生物学者エドワード・モースが日本滞在録の中で述べています。
子供を背負うということは、至る処で見られる。婦人が5人いれば4人まで、子供が6人いれば5人までが、必ず赤ン坊を背負っていることは誠に著しく目につく。・・・私は世界中に日本ほど赤ン坊のために尽くす国はなく、また日本の赤ン坊ほどよい赤ン坊は世界中にないと確信する。
『日本その日その日』/エドワード・S・モース/講談社学術文庫
■『宮 熱田神事』 今はなくなった神事とは?
先頭をゆく男の力のこもった姿が、祭りの熱気とスピードを感じさせます。
描かれているのは尾張地方の行事「馬の頭(とう)」の様子です。馬を神社に奉納する神事で5月5日に熱田神宮で行われていました。明治に入ると、馬の減少とともに神事もなくなりました。
交通・通信
宿場には、旅人の宿泊の他に、人や荷物、手紙の受け渡し場所の役割もありました。東海道を移動する手段としては徒歩、駕籠(かご)、馬がありました。『東海道五十三次』ではこれらで旅をする人々が生き生きと描かれています。
■『吉原 馬子』 鞍に乗るのは誰?
3人の子供が馬に揺られています。袴姿なので武家の子供のようです。後ろ姿ですが、富士を眺める子供、うたた寝をする子供がのどかな雰囲気を作り出しています。
馬は重要な交通手段でした。宿場ごとに馬と人足を交替して運ぶ、伝馬制という仕組みが整備され、各宿場には多くの馬が待機していました。
■『三島 朝霧』 駕篭かきが向かう難所とは?
駕籠(かご)かきが朝霧の中を出立します。馬を引く馬子や駕籠に乗る人物は寒そうですが、駕篭かきはすでに半被(はっぴ)姿です。
手前に進むのは、江戸方面に向けて出立する一行です。箱根の山越えをするために駕籠かきを雇って、急坂に備えます。
■『平塚 縄手道』 飛脚は江戸―京都を何日で配達?
飛脚が駕篭(かご)かきとすれ違う一瞬を捉えています。
飛脚は江戸時代の重要な通信手段でした。幕府は各宿場に飛脚の中継所を設け、手紙や荷物を駅伝方式で運びました。通常の旅では2週間かかるところを、飛脚は3~4日で配達しました。
渡河の様子
東海道には大小さまざまな川がありました。川を渡る方法は、橋、船、徒歩(かち)の3種類でした。大きな川は徒歩(かち)渡しで旅の難所でした。
■『川崎 六郷渡舟』 渡しの先にある巡礼の地は?
もうすぐ向こう岸に到着するので、手前の商人は船を降りる支度をしています。武家の親子3人は川向うの川崎大師にお参りでしょうか。船は平底の伝馬船(でんません)です。水深が浅いので船頭は竿で川底を押して進みます。
多摩川には40ヶ所前後の渡しがありました。江戸時代初期、六郷に橋が架けられましたが、洪水で流され、船での渡しになりました。
■『府中 安部川』 女性を運んでいる乗り物は?
3人の女性が徒歩(かち)渡しで川を渡ります。人足が人や籠を乗せて担ぐ台を輦台(れんだい)と言います。肩車と蓮台で川を渡るようすが描かれています。輦台に乗る女性たちの、心配そうな表情をとらえています。
■『嶋田 大井川駿岸』 何人の人物が描かれているのでしょうか?
大名行列が渡河する様子を遠景で描いています。100人以上もの人物が小さく描かれていますが、ズームアップして見ると、個々人物の特徴がよくとらえられているのが分かります。
巡礼
江戸時代後期になると巡礼は観光の意味合いも強くなります。物見遊山しながら巡礼の旅をするのです。巡礼を盛んにしたのが「講」というシステムです。集落で講を結成し、旅費を出しあい、交替で巡礼に行きました。
■『沼津 黄昏図』 女性が持つ柄杓(ひしゃく)は何に使う?
巡礼の旅人二組が、夕暮れの道を急ぎます。
天狗の面を背負う男は金比羅(讃岐、現在の香川県)参りに向かいます。金毘羅様に天狗の面を奉納する習わしがありました。
前を行く巡礼は親子でしょうか。手にはお布施(ふせ)を受け取る柄杓(ひしゃく)を持っています。
■『藤澤 遊行寺』 4人のあん摩の行く先は?
4人の座頭(ざとう)が江ノ島弁財天の一の鳥居をくぐり、江ノ島に向かいます。座頭は江戸時代の盲人の職業で、三味線や琵琶で物語をしたり、あん摩や鍼灸(はりきゅう)をしたりしていました。江ノ島には盲人のために、あん摩とはり灸技術を開拓した杉山和一(わいち)を祀った弁財天があり、盲人が参拝していました。
風習
『東海五十三次』で描かれる人物をみると、当時の風習を見ることができます。今は廃れた風習を中心に紹介します。
■『鳴海 名物有松絞』当時の女性のコスメとは?
前を行く女性は眉を落としています。これは引眉(ひきまゆ)という奈良時代から江戸時代まであった風習です。江戸時代の既婚女性は引眉とお歯黒のセットがコスメでした。後ろの女性は眉があるので未婚であることがわかります。
■『藤枝 人馬継立』 裸姿に抵抗感はない?
荷物を馬から馬へ載せ替えたり、人足が荷物を受け取ったりしています。人馬継立は、荷物を運ぶ馬や人足が交代するための場所で、幕府公認の施設でした。
人足の多くは褌(ふんどし)姿です。江戸時代の庶民は、人前で裸になることに抵抗はありませんでした。エドワード・モースは裸体に関して、以下のように述べています。
私は裸体の問題に就いてありの儘の事実を少し述べねばならぬ。日本では何百年かにわたって、裸体を無作法とは思わないのであるが、我々はそれを破廉恥なことと看做(みな)すように育てられて来たのである。
『日本その日その日』/エドワード・S・モース/講談社学術文庫
■『二川 猿ケ馬場』 3人連れの女性の職業は?
3人の瞽女(ごぜ)が荒涼とした野原を行きます。それぞれが三味線のような楽器を背負っています。瞽女とは盲目の女旅芸人です。三味線や胡弓を携え全国を巡り、唄や物語を演じました。藩からの保護を受け、庶民の娯楽として普及していました。
瞽女を主人公にした映画『瞽女GOZE』が公開されました。
映画『瞽女GOZE』の情報はこちらからどうぞ(外部サイトへリンクします)
自然
広重は『東海道五十三次』で雨、風、雪という自然も描きました。自然を描く場合も人物が重要な役割を担います。
■『蒲原 夜之雪』 静寂感を演出する人物の効果は?
番傘を半開きにして、雪の重みに耐えています。杖をつき、雪下駄を履いた足取りは慎重です。静かに降り積もる雪の中を3人の人物がすれ違います。水墨画のようなモノクロームの色彩で雪夜の静寂を伝えます。
小説家の藤沢周平はデビュー作『暗い海』のなかで葛飾北斎にこの絵の印象を語らせています。詳しくは「藤沢周平の作品朗読で『蒲原』を味わいませんか」からどうぞ
■『四日市 三重川』 風を演出する仕組みは?
強い風の中を旅人が風に向かって歩いています。簑(みの)が風にはためく音までも聞こえてくるようです。
笠を飛ばされた旅人、風になびく草木、風に向かって歩く旅人を描く事により、画面全体に吹き渡る風を感じさせます。
200年ほど前に広重が描いた人物を通して、当時の名物、交通・通信、渡河の様子、巡礼、風習、自然を見てきました。絵の中に入り込めた作品はありましたか。そんな作品に出会えたら、印刷して身近に飾ってみましょう。
関連情報
■地図アプリとの連動
『東海道五十三次』の宿場一覧を地図上に表示する地図アプリ「東海道五十三次の旅」を公開しました。宿場の場所をクリックすると作品と解説が表示されます。
画像をダウンロードして印刷することもできます。
■『名所江戸百景』
『名所江戸百景』は117点からなる広重最晩年の作品です。江戸の四季と名所を描いています。
作品一覧と代表作8点の紹介はこちらから
季節と場所を一覧表示する地図アプリ「名所江戸百景」を公開しています。
■『広重ブルー』 広重の人物像にせまる
歌川広重とはどんな人物だったのでしょう。
小説『広重ブルー』(梶よう子/著)では、定火消同心の役を退いた後、絵の鍛錬を重ね、遺作『名所江戸百景』を出版するまでの半生が書かれています。
広重は海外から輸入されたベロ藍というブルーの絵の具に魅了されます。ベロ藍で江戸の空の色を描きたいという思いが、「広重ブルー」というタイトルになっています。
広重自身は、朝風呂を欠かさない生粋の江戸っ子として描かれています。
■浮世絵の印刷には和紙がぴったりです。
和紙への印刷方法はこちらから
和紙のご案内はこちらから(外部サイトへリンクします)
■浮世絵には大判、中判、小判、などのサイズがあり、最も一般的なサイズが大判(約39cm☓26.5cm)です。
大判の浮世絵を原寸で鑑賞したい方に、大判の和紙に印刷した作品をご用意しました。
大判の浮世絵作品のご紹介はこちらから
■参考文献
『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画/「マネジメントの父」が愛した日本の美』千葉美術館展覧会 図録
『日本その日その日』/エドワード・S・モース/講談社学術文庫
『歌川広重 保永堂版 東海道五拾三次』/佐々木守俊/二玄社